天守は城の中心であり、また象徴でありました。
城があっても天守がない場合、城としての価値は半減されます。
明治維新において封建制度の崩壊とともに、城郭の存在意義は失われて各地の城、天守が段却されて、城地は公園となるとか、学校が建てられるとか、いわゆる史跡としてようやく保存されるところも少なくなかったのです。
それに加えて今次の戦災によってさらに重要な城郭建築が焼失しました。
天守その他では名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、広島城、福山城があり、櫓門では松山城、高松城、追手門では宇和島城などがあげられます。
日本城郭史上の著名城で残ったものは姫路城、彦根城、大山城、松本城、新しいものでは、高知城(延亭4年=1747)、福山城(安政元年= 1854)など数ヶ所にすぎないありさまでした。
天守は、もと望楼として守殿(領主、豪族の館(やかた))の屋上に建てられた方形の櫓であり、室町時代に描かれた「結城合戦絵巻」にほぼそれに該当する描写があります。
結城城の陥落は永亭12年(1440)であって、絵のつくられたのはそれより少し後としても、現存城郭中の最古といわれる犬山城天守(天文6六年=1537)の上層にみる高欄(こうらん)、華灯窓(かとうまど)開き付の構造と一致しているのです。
[A]概要名古屋域の天守は、五層で下層に穴蔵が一重あるから、内部では六重になっています。
石垣の高さ12.42メートル、建物の高さ土台から五層棟まで35.85メートル、穴蔵は東西19.999メートル、南北23.636メートル(十三間)で石垣の胎内にあり、御金蔵三室、御用御蔵間、米蔵などにわかれています。
ここに厳重な門扉があって、鉄板張り、周囲は天井まで総塗龍(ぬりごめ)です。これがただ一つの天守入ロだけに要害堅固をきわめたものです。
天守初重は、南北27.227メートル(十五間)、東西23.636メートル(十三間)、周囲に入側(いりがわ)があって井桁之間、水帳之間、物置など十室に区画され、四周は板が張って有ります。
水張之間は、慶長検地の水帳を収めた長持八棹が置かれ、長柄槍百柄、六匁玉鉄砲二百挺、玉三万六千個、明桧縄千五百把を常備していました。
二重は大きさ初重と同じで、室の数も入側も縮小されていません。
三重は南北23.63メートル(十三間)、東西19.999メートル(十一間)、四方に入側をめぐらし、内部の区画は十一室、ほかに破風の間を一室ずつ付属させています。
四重は南北18.181メートル(十間)、東西14.545メートル(八間)、入側があって4室にわかれ破風の間が東西各2となっています。
五重は南北14.545メートル(八間)、東西10.909メートル(六間)、一間の入側をめぐらし内部は四室で、東南を一之間と称し、藩主の御座の間にあてられていました。
この五層のみは二重に長押(なげし)をうち、塗橡の格(ごう)天井を張り、室境には黒桟塗(くろさんぬり)の舞良戸(まいらど)をたてています。ここには遠眼鏡とこの室から四方を展望した見取りの絵図、すなわち遠くは信越はじめ十州におよぶ諸山から、眼下にひらける近くの郷村まで、地名、山名を記名した彩色図額が備えてありました。これを模したものが、天守展望台に掲げてあります。
もっとも遠眼鏡だけは海外の舶載品で貴重ですので、本丸御留守居役において施錠して保管したと言われています
[B]石落とし天守の内部防衛構造でもっとも著名なものは石落しでしょうか。
名古屋城にもまず穴蔵の入口頭上につくられ、二層は出張りのうえに唐破風を置いて、巧みに偽装し、初層屋根裏から、石を落とす仕掛けにしています。
また四隅の櫓にもすべて石落しを備えつけました。
これはいうまでもなく楠正成が千早城などで用いた戦法を、建築構造のなかに取り入れ、固定的な施設としたものです。
[C]金鯱名古屋域にあってもっとも有名なものとして金鯱が有ります。
城郭の大棟の上に鯱を掲げることは、おそらく室町時代の前期頃城郭の形態ができあがったときからはじまったものと思われます。
わが国ではすでに六世紀頃に法隆寺の玉蟲厨子や、奈良の唐招提寺金堂の屋根に鴟尾(しび)が見えています。
この時代のものは鯱とはいわず鴟尾と言いました。鴟尾は中国で豈尾と書き海獣です。
鯱は鯨の目(もく)に属するイルカ科の猛獣で、サカマタとよばれ、全長六メートルから九メートルに達する巨大なものがあります。この種のものは鯨のように水を吹くので、火災を極度に恐れた古い時代には、大建築の屋上にこれを取り付けて火を防ぐ肥(まじない)としました。
城郭の方は城の装飾として、また城主の威を示す象徴として、ほとんど例外なしに用いられ、ことに天正四年(1567)織田信長の築いた安土城以後は大坂城、伏見域などが瓦にも金瓦を用いましたので、鯱も多分金張りとなっていたと想像されます。
それが名古屋城においては、築城が日本城郭史上の最後期に属し、かつ戦争も経験しなかったため、完全に昭和の戦災まで残りました