平安朝貴族の邸宅である寝殿造(しんでんづく)りの定型としては、寝殿が中央に、その左右に対之屋(たいのや)があり、さらに釣殿(つりどの)と泉殿(いずみどの)が廻廊でつながれています。
庭の中央には必ず池が掘られ、そのまんなかに中島があって、朱高欄付の橋をかけ、舟を浮かべ、水辺には桜・楓などの花木を植えてあります。
名古屋城本丸御殿は武家の書院造りですから、この定石を学ぶ要は有りませんでしたが、築造のはじめにはもちろん適当な庭をつくる予定のところ、そのご上洛殿の増築により南の土地が狭まり、ついに庭園のない御殿となってしまいました。
その後藩公はニ之丸に移り、新殿が造営されるとともに、そこに権現山や聖堂をまつり、また築城の余石を集めて木曽寝覚うつしの豪壮な庭園がつくられました。
こんにちニ之丸で遺存するものとしては、わずかに東西鉄門と北辺に寝覚の庭をのこすだけの状態ですが、明治維新前には現在に倍するほどの山水回遊式平庭と花園が東南方にひろがり、このあいだに休み茶屋も一、二宇有りました。
[A]権現山権現山は「金城議古録 』に祭神二座、東に熊野権現、西に愛宕(あたご)権現を祀るとあり拝殿は御末社の前山上にありました。
御石階は南の山腹に、鳥居は階の下、岩橋はその前に掛っています。
ほかに将軍通御のための朱塗り欄干橋も架せられていましたが、今はいずれも廃されて、ただ地形によって当時を判断するほかはありません。
[B]聖堂聖堂は古図に山の西麓に南面してとされていますが、この建物を掘川ばた(中村区水主町)の法蔵寺に下付されたのは享保九年(1724)7月であり、(昭和6年焼失)、さらにその後の変更で今はまったくその跡を明らかに出来ません。
またこの辺りはもと杉の生垣であったものが、文政(1818-29)年代に山がつくられ、軍略上から有名であった蘇鉄の御庭も、撤石(まきいし)の御庭も、取り払われていまは跡方もなく変わってしまいました。
[C]木曽寝覚めうつしここにもっとも注意をひくのは旧観をのこした寝覚の山水です。
築造の年代は、二之丸殿舎新築が元和3年までの間であるのと同じく、この庭もまた同年頃の構築とみるのが妥当で、その一つの理由として注意すべきは、寝覚うつしの景観です。
家康が義直の結婚により奥向(おくむき)費用の増加を問うたところ、原田右衛門らが一日黄金一枚と答えたのに対し、その賄科として木曽の山川(面積は尾張一国に等しいといわれた)を付属しました。
これが元和元年であり、木曽山を尾州領に入れたことは、もとより幕府の政治上、軍事上の重大な理由に基づくものであって、尾張藩としては広大な土地と木材および水運によりその富力と資源を加えたこともまた極めて重要な事です。
[D]二之丸東庭園二之丸庭園の東に隣して、東庭園が昭和53年4月に開園されました。
この地域は、明治の初めに東京鎮台第三分営ができたので、兵営建築が立ちならび二之丸庭園の東部一帯は全く壊滅しました。
戦後、前記の兵営建築は学生会館として使用されましたがこれも退去しました。
その跡地は名古屋市が借受け、ニ之丸庭園の復元を図ることとなりました。
東庭園は、大部分を芝生広場として造成され、全体的に明るい公園広場として造成され、その面積は14000平方メートルです。
昭和55年5月、全名古屋ライオンズクラブが「望鯱亭」という休憩所を建設し、名古屋市に寄贈しました。
[E]作事この庭園の作者について、 「金城温古録」には福島正則が命をうけて造進したと当時の伝承を記載していますが、正則はすでに慶長15年(1910)築城に加わり、加藤清正とともに郷土出身の大名として、特に縁故の探い関係から、正則造進説はきわめて妥当と思われますが、この二之丸落成の頃は、正則に対する幕府の疑視が険しくなり、義直移居の前年、元和5年(1619)に安芸備後49万石の大封を奪われて、捨扶持45000石で信州川中島に流されていますので、二之丸築庭を正則とするのは疑問が有ります。
細部の技巧的方面には、天守の作事奉行であった大茶人小堀遠江守政一らが関与したものではないかと言われています。
政一は天守造営の担当者として、慶長15、6年頃からしばしば名古屋にきており、その後も京都、江戸の間を往来するごとに義直のもとに何候し、もし登城をしかねるときは、宮の宿から、かねて入魂の間柄である国老竹腰氏、志水氏らに書信を送っており、尾張家との関係はきわめて親密であったから、二之丸新造のことがあれば、殿舎、庭園の構築にあずかって、工人や庭匠を指揮するなど、当然あるだろうと考えられます。
政一は建築造園については当代の第1人者で、その作品としては世界的に有名な桂離官、孤蓬庵などが残っています。
また一説には遠州の師である古田織部正重然が作者であるという話も有ります。
すなわち織部は秀吉、家康、秀忠に仕え、名古屋城には猿面茶席を清須から移建したほどであるから築城につけてなにほどかの関係はあったとしても、織部は慶長20年(元和元年)6月、豊臣氏滅亡の直後に大坂方内通の疑いによって切腹しているから、ニ之丸の築庭を指図するはずはないと思われます。
その様に考えてくると、この庭園はまず遠州の指図によると解しても、大きな違いがないのではないでしょうか。
[F]性格この庭園の性格について言うと、貴族の邸やその別宅や大寺につくられた艦賞中心の庭園の観念をもってみることは、この庭を解する道では有りません。
すなわち、雄藩の城郭内にある城主居館の奥庭として、その一隅には城内鎮護の神洞をまつり、また儒祖孔子の祭堂をおき、敬神好学の心厚い義直の志向をそのまま表現していますが、一朝有事の際は敵の侵入によって城主が一時避退の場所として設計されています。
全体の面積が小さい割に、丘や森のたたずまいが峻峻で、谷は深くして巨岩を畳み山上には老樹が茂り、後面は桧を密植して退路を隠すなど、かの京畿寺院の林泉とは決して同じでは有りません。
ことに石は築城の余石を使い、紀州産青石の一個にして数千貫(10数トン)の大きいものから、篠島産、佐久島産の名石を多く据えて、巧みに木曽の峡谷美を映し出しています。
なお意外なのは、この庭中の植物にラカンマキのような防火樹をはじめ、石間所々に天台鳥楽(てんだいうやく)ネズミモチなど幾種かの薬草を植えていることで、なかんずく天台鳥薬は、幕府から下賜された薬木といわれ、これも有時の際に備えるものであることは言うまでも有りません