天守閣の石塁は加藤清正が特に家康に請うて独力で築造にかかり、六月定礎の工事をはじめ( 『金域温古録」に、六月1三日根石をおくとあり)八月末には完了をつげています。
清正の書状によると、「八月二十七日、御普請出来、御用仕舞明日発足」とあるので、実に早くできたことに驚かされます。
かくて清正は九月三日態本に帰域し、またほかの大名も工事を終わるとともにおのおの帰国し、なかに工事未了や手直しのため、なお留まって冬を迎えた者も二、三はあったと伝えられています。
[A]概要現在大天守の石垣の三隅にはつぎのような刻銘が残っています。
東北隅北面 加藤肥後守内 小代下総
西南隅南面 同 中川太郎平
東南隅南面 同 小野弥次兵衛
なお、これを積みあげるには、石垣に幕を張って外部から見ることを許しませんでした。
その理由として、家臣飯田覚兵衛が朝鮮在陣中、かの国の石積法を伝えたから、工事の中途では一切他見を断わるというにありました。
朝鮮の工法がいかなるものか、完成した石垣の表面をみるだけではよく分かりませんが、これは清正の叡智を知る一例ではないでしょうか
[B]天守石垣諸大名とならんで複雑な丁場割の一部を担当しては、工事の面倒ばかりが多く仕事が目立たちません。
最も重要な大天守は四面通じての面積は大きいが独立しているので、単独の工事をするのに都合が良く、第一大御所家康に対しこの忠勤ぶりが特によく知られます。
慶長十六年三月先主の遺児豊臣秀頼を守って、二条城で家康に謁したときの忠誠は清正にして、はじめてなしえられたところです。
そして、ここでも多くの外様諸侯に率先して、徳川家にむかって示したところの忠動は、やはり清正なればこそなしえられたところです。その誠実忠貞はすでに定評のある清正ですが、名古屋築城にみられる清正は、時勢を察するには機敏で、かつ保身の術においてはその勇武以上に断然諸侯をひきはなす智恵者でした。
[C]丁場割諸侯の受け持った石垣の丁場割は、「金城温古録」をはじめ諸書にのせられていますが実に割り付けが複雑で、これによると、この継手の部分をいかにして竣成させたものであるか、本丸の石垣をみて担当諸候の記号を彫り付けた石のあまりにも多いのに驚きます。
同時に丁場割りがこまかく至難で、これを無事に組みあげるには、いかに担当の諸侯が自粛して役夫を戒め、たとえ口論といえども厳に取り締まって一意無事完成を願ったかが推しはかられます。
もし丁場割によって現場に紛争をおこし、ために血をみるような狼籍などのあった場合には、その大名は必ず減知国替えなどの懲罰をうけるのを覚悟せねばならなかったからです。
ことに諸侯が苦心したのは石の蒐集で、その多くは国もとから遠路を舟、筏によって運んだと伝えられていますが、なかにはこの地において取り集めたり、補充したのも多々ありました。
この近郊の岩崎山や猪高(いだか)地方はもとより、知多沿岸の海石から東三河の山々まで尋ね入って切りだしたものもあり、その人力と財力を注いだことは同情の限りです。
前田筑前守利光は、春以来多くの中石をとりよせてひとりこれを二之丸に運び入れ、用意のほどを示しました。
ほかの大名たちは本丸の空地にひしめきあい、難して貯えました。
[D]石曳きなかでも加藤清正のような巨石大石を要する丁場では、これを運搬するのに多くの美童を着かざらせました。
すなわち、髪は銀糸巻立ての茶答(せん)で前髪を左右にたらし衣服は色染め刺編模様の振袖、裾狭(すそせば)の袴に紫の皮足装をはき、手に手に片鎌槍をもって石のうえに立たせ、
及びなけれど万松寺の花を
折って一技ほしゅうござる
の唄をうたわせ、みずからは飽尾の兜(かぶと)に陣羽織をきて首に大きな数珠をかけ、日の丸の軍扇をひらいて音頭をとり、市民の老幼をとわず綱(つな)にとまらせて盛んな石曳きをやったと伝えられています。
[E]運搬石の運搬についてはできるかぎり水路を利用しました。当時庄内川の支流が広がって海水と接し、名古屋台地の西辺をひたしていたので、その洲のあいだを漕ぎぬけて瓶屋橋(かめやばし)付近に接岸し、ここで陸あげをすると、ただちに石工の手で適当の大きさに切り割られ、小舟に積みかえられて笈瀬(おいせ)川の水路をさかのぼはり、築城現場に運ばれます。
また六反田(現・中村区)の石ヶ坪付近でも当時盛んに石割り作業が行われたと言います。
瓶屋橋の石割場には石割用ののみ、げんのうをはじめ多くの鉄製器具をつくるため、鍛冶職人が小屋をかけて一時居住したといい、その跡を鍛冶ヶ森と称してきました(現、金山と言います)
そのほか落し石をはじめ運石遺跡は市の内外に散在し、当時の石狩りがいかに深刻であったかが思われます。
はなはだしい例としては、石仏(いしぼとけ)村(現・昭和区)の善昌寺がその頃炎上したところ、さっそく焼跡の大きい礎石さえ掘りあげたと言われています。